笠智衆だけのもの
ご同輩なら、このかたが笠智衆さんであることはすぐお分かりになるでしょうが、
いまの若いかたはご存じないでしょうな。
笠智衆(りゅうちしゅう)さん、といいます。
ながくつとめられた老俳優、といえばすこしは分かっていただけるか。
いいでしょ、このモノクロ・ポートレート。
人生なのか、死なのか、あきらめなのか、
なにか想いを嚙みしめているような、哲学者のような相貌と静けさ。
撮影したのは稲越功一という当時気鋭の人物フォトグラファー。
(大きな黒い天幕を背景に配して、大判フィルムカメラで「カシャッ」という手法)
KAMOやOshuman’sなどがやってくるずっと以前、
JR原宿駅ホームからからみえる一等地に住宅型マンションがいくつか建っていて
稲越さんはそこに事務所を構えておられました。
(当時、原宿周辺はクリエーターと称される人たちの巣窟でもありました)
当方はそこへお邪魔して、稲越さんから直接購入。
印画紙の裏面には稲越さんのサインと「1991」のはしり書きがあります。
笠さんが亡くなったのは1993年ですから、
最晩年のポートレートといってもいいでしょう。
笠さんは明治生まれで、肥後もっこす。
熊本県人特有のイントネーションは亡くなるまで
標準語風になることはありませんでした。
また、山田監督から「ここは泣くシーンなんだから」といくら説得されても、
「オレは明治の男、男が泣くわけにはいかん」と手こずらせた、という逸話もあり。
これは昭和を代表する俳優Tさんから伺った話。
ロケ地が丘の上にあって、朝の集合に長い階段を上がってゆかなければならない。
笠さんがひとりでたくさんの荷物を抱えて黙々と上っていたので、
みかねて「お持ちしましょうか」と声をかけると、「いや、自分で持ちます」と。
「そのころ、共演の森繁久彌さんはハイヤーで上がって涼しい顔をしていた」と
それぞれのキャラを対比させて笑わせてくれた思い出があります。
エピソード、もうひとつ。
長い地方ロケが終わって、撮影地近くにあった老人施設へ映画の宣伝をかねて
お礼の挨拶にゆくことになった。
監督や俳優、スタッフがロケバスからぞろぞろ降りているのに、
笠さんだけがひとり席を立たない。
「笠さん、行きましょうよ、みんな待ってます」。
声をかけると、こう答えたそうだ。
「ぼくは行かん。ぼくは老人ホームに入っているような奴らがだいっ嫌いなんです」。
当方の父は80 代から老人施設を転々としていたので、
このコメントにはいくばくかの抵抗感はあるものの、
明治男の文化や一徹ぶりが直接的に表出していて、
やはり名監督がご指名で選んだだけの理由がある、と感じた次第。
いまだったら、世間的には「アウト!」でありましょうが。
ちなみに笠さんの実家は浄土真宗のお寺だそうで。
松竹に入社したときは大部屋俳優でしたが、
「秋刀魚の味」(1962年)などたくさんの名作で主演をこなしました。
で、いきなり話はとびます。
昨年暮れに公開されたヴィム・ヴェンダース監督、役所広司主演の「Perfect Days」。
周囲の評価を聞くかぎり、比較的ネガティブな見方が多かった印象ですが、
当方には刺さりました。
起承転結があるわけでもなく、日記のようにたんたんと繰り返される日々。
でも、それこそ素晴らしいことじゃないか、と言っているような肯定感。
「The Dock of the Bay」「The House of Rising Sun」など
背景に流れるカセットテープも脇役として十分な働きをしていたような。
それはさておき、主演役所広司の役名は「平山」でしたが、
「秋刀魚の味」も同様に「平山周平」。
ヴェンダースは徹底した小津信奉者ですから、
役名「平山」にも小津へのふかい尊敬の思いが現れているとは、
ヴェンダース・ファンの解説。
小津に呼ばれ、山田洋二に呼ばれ、それほど器用とは思えない芝居なのに
その誰にも似ていない個性で役者人生をつらぬいた笠智衆。
そんな奴、いまの時代、誰がいる。
(個人的には、「桐島、部活」でいい演技した東出昌大あたりを期待したいが・・)